建設業に関する国の予算(2002年度)
アメリカ7%程度/ヨーロッパ12〜13%程度
日本は50%を超え・1平米あたりに敷き詰めるコンクリートの量がアメリカの30倍。

古い資料ですけど現在も変わらないと思います。世界と比べると地理的な条件と建築基準も異なるので比較しても難しい数字ですが、環境破壊や景観破壊に繋がる数字だと思います。無駄な公共事業費が加算になってる気がします。いま勤務先の近くで水害被害軽減の規模の大きな公共工事が行なわれています。その場所は河川敷ではありません。勤務するようになって約3年は経過しています。その間、市内にで被害が大きかった台風が2回ありましたが、この地域で河川が溢れての浸水等の被害は起きてません。工事理由が理解出来ないのです。この工事のため地面を深く掘削してコンクリートで固める。田んぼをつぶして土砂を埋めてアスファルトで固める。自然破壊と景観破壊をしてるようにしか見えないのです。

この様な現状を日本の文化活動を行うアメリカ人が「国破れて山河あり」という杜甫の漢詩を例えに「国栄えて山河なし」と皮肉っていました。これから将来この風景を眺めると人間の身勝手さをきっと嘆くようになるのでしょう。

歴史を学ぶ事は未来を考察するための教訓が歴史の中にあるためだと教えられます。その教訓は先祖が生き残るため、命を繋ぐため、何をしてきたのかを知ることです。その教訓のひとつとしていま武術の居合の型を学んでいます。もっと身近に学ぶとしたら家族ではないでしょうか。家系を調べたりすることは、必要がない限りはしませんが、普段からでも家族に伝えるべき大切なことだと思います。それは祖父母の父や兄弟のことを何も知らないからです。そのことを知るきっかけとなったのが祖父母が亡くなってから家系図を作成する機会があってのことでした。

祖父は、七人兄弟(男三人 女四人)の三男。宮崎県西臼杵郡諸塚村 出生。この村は田園風景が広がるような村ではなく、山奥の山村です。村に産業がなかったためか分かりませんが、二男は満州に渡って職を得ていたようです。長男は村に残りましたが、大正12年 24才で亡くなっています。死因はスペイン風邪の影響だと推測します。それから3年後、母親が51才で亡くなります。そして昭和12年。祖父24才の時に父が70才で他界。この年の前後で、女兄弟は結婚をして村を離れています。さらに哀しい出来事が起こります。昭和14年に二男が満州で亡くなります。両親の代わりに二男の死亡の確認と手続きを行うために祖父は満州に渡ります。下記の写真はその時にお見合い写真として写したようです。昭和16年に帰国して結婚。名古屋に住み叔父が生まれます。昭和20年の名古屋大空襲によって名古屋を離れ宮崎に戻ります。宮崎に戻ると会社を組織し、数年後、福岡に拠点を移します。そして、父が生まれ、母の祖父と知り合い、わたしが生まれるきっかけとなって繋がっていくのです。

ここまで調べてみて感動を受けた事は、祖父が30才の時には、両親と男兄弟を亡くして一人で人生を歩んでいたことでした。気難しい顔をしていて近寄り難い。そんな印象だけが記憶に残っている祖父の印象が変わりました。まだ謎が残ることが、祖父の先祖が住んだ郡諸塚村。なぜ?こんな山奥に住んだのかが謎のままです。推測が出来るのが、平家の落人説。その証拠となるのが、山を降りた隣村に椎葉村があります。そこに、平家尊々の厳島神社の守護神を勧請し建立したものとされる椎葉厳島神社があるからです。想像は膨らみます。郡諸塚村は現在、「椎茸」が特産となっていますが、これを何百年と生産している分けでもないだろうし、どの様な職を得て住んでいたかが分からないことや、戦時中の時のこと等を祖父の生前に聞いておくべきだったと後悔しています。

作品の題名は、作品を知る入り口として必要ですが、題名によってイメージが限られるためにわたしは「無題」としています。想像は無限です。

どこにでもある風景だと思いますが、この作品は郷里の風景です。、地下鉄 空港線 西新駅を降りて、次の駅 藤崎駅 までの間 約1.5キロ程の間を飲食店や雑貨店等が軒を連ねる商店街通りとなっています。その入り口の風景です。大学生の頃迄は雑多としていて趣きのある街でした。近年、建物の老朽化で新しいビルに建て代わったり、全国チェーン店の出店等で古い店も無くなってきています。街は年々、姿を変えても、街の風土は時が過ぎても何も変わることはありません。吹く風や照らす太陽の暖かさ。郷里への想いは街並よりも風土の記憶だと思う。


西新について | 西新商店街公式ホームページ|福岡市早良区西新

「西新」は福岡市西部の早良区に位置し、地下鉄で一駅隣の「藤崎」と共に西部の副都心を形成しています。江戸時代、現在の中央区今川付近が「西町」と呼ばれていたのに対し、樋井川以西を「新西町」と呼んだことに由来され、これがいつしか逆転して「西新」という地名になりました。 「西新商店街」は、樋井川から藤崎の交差点まで続く約1.5kmほどの長い通り。ここは江戸時代に、豊前の小倉から、博多を通り唐津へと向かう「唐津街道」が通っていたその中間地点でもあります。西新駅周辺から藤崎駅までの商店街を総称し、「西新商店街」といいます。「リヤカー部隊」で有名な西新中央商店街を始め、勝鷹水神通り商店街、ハトヤ新道商店街、はとや通り商店街、西新名店街、B-dish、中西商店街の7つの商店街を西新商店街連合会として組織し、280程のお店からできています。  多くの商店街が「シャッター商店街」と呼ばれる中、全国的に見ても空き店舗率が少なく、活気あるお店と人々で賑わいをみせています。周辺には、県立修猷館高等学校や西南学院(中・高・大)などがあり、学生街として若者も行き交っています。また、文教地区であることや、住みやすさから転勤族向けのマンションも多く「転勤族の街」とも呼ばれています。何代にも渡りこの地に住み続けている人と新しくやってくる人。様々な人々がこの街で出会い、多くの繋がりを作っています。 ここの名物と言えば「リヤカー部隊」です。全国的にも有名で、リヤカーに生鮮や自家製漬物、四季折々の魚介類や野菜などの食材を載せて販売しています。多い日には、10数台のリヤカーが歩行者天国になっている商店街の通りに並ぶ西新らしいところが見れます。安さも魅力的ですが、売り手のおばちゃん達とのやりとりが何とも楽しいものです。 中央商店街のお店はこちら>>

西新商店街|福岡市早良区西新


与えられた資料を参考に作品の善し悪しを判断する日本人と、作品を眼の前にして受けた印象を大切にする外人。海外で展示を行った時に感じたことでした。この様な差があるのは美術教育に問題があるのです。小学生の頃を思い出せば図画工作の時間は苦痛でした。それは与えられた課題の結果が上手か下手で評価が決まるからです。上手にやらないといけない思いが苦痛を感じていました。苦手意識を持つ様になると美術から離れてしまう原因のひとつです。与えられた課題をこなすというだけの受け身の授業が原因のよう思えます。やがて専門課程が進むと先生の評価に頼るようになってしまい、いつのまにか先生の納得がいくような作品を制作し、そのまま卒業してしまいます。これも、問題があると思うのは、海外での授業では生徒同士の討論を行う時間があるからです。伝える、作品の批評を行うことを学ばないからです。与えられた課題をこなすことは技術を磨いていくことでは役に立ちますが、大切な感性を失っていることが言えるのではないのかと思います。



約10年程前、ベティ・エドワーズ という方がデッサンの技法書「脳の右側で描け」というタイトルで出版された本の一部抜粋になりますが、「現代生活では左脳の働きがますます幅をきかせ、直線的かつ分析的な考え方やデジタル思考などが蔓延しているが、右脳の機能を強めることで、その傾向に歯止めをかけられること」ということが書かれていました。この本の内容といま企業が求めている人材像に共通することに気付かされました。その企業が求める人材像で重用しされているのが「創造性」や「柔軟性」です。あらためて右脳と左脳の役割についてですが、右脳は、直感力 音楽力 図形力 空間認知力。左脳は、言語力 倫理的 計算力 物事の分析力 役割と働きが異なります。創造性や柔軟性を身に付けるには、右脳を刺激し活性化させること。それが絵を描く行為が効果的なのです。いまこの様なことが重要視されている背景には、美術教育の必要性が無くなって来ているからです。その理由は、受験で必要がない 将来役に立たない 道具が高価 等 の理由で学校での授業が減っていることです。そのため美術室は必要が無く学校によっては無いところもあると聞かされています。そのようないまの教育について シンガーソングライターの美輪明宏 氏は、良質の詩や俳句、音楽、絵画などの作品に触れ、自ら創造する時間、つまり芸術系の時間をもっと増やすことが必要で、その時間こそが人を思いやる心(想像力)が育まれる と芸術の必要性を訴えています。美術教育を受けてきたわたしもいま、芸術の大切さ、重要さについて問いかけていく必要性を感じています。


絵の制作のテーマは住んでいる街の風景でした。わたくしの住んでいた近所には田んぼも畑も有りません。コンクリートで建てられた四角い建物ばかりの街。その四角い重なりに幾何学模様の様な美しさがあるのです。学生の頃、日本人なのに海外の風景ばかりを描く作家に疑問を抱いていました。その答えは単純だと思いますが、考えられることは日常と全く違う世界に触れることで創作意欲を掻き立てられるからだと思います。しかしわたしの場合は、街路樹や街の喧騒、街の匂い、身近に感じて触れられるモノ。その描かれた作品を観た時に身近なモノに眼を向けて欲しいという思いもありました。それはいまも変わらずに持ち続けているテーマです。

現在、アメリカでは去年と比べて銃の販売数が倍以上伸びているようです。コロナ対策による社会不安の高まりが原因のようです。将来の悪い事態に備えて各家庭が必要としていることは事実のようです。日本でも同様に治安の悪化が懸念されています。ここ最近は思いがけない場所での殺傷事件が増えているのは確かなことです。身近なことですが、数年前に東京で殺傷事件が起きた時たに、犯行の時間帯に殺傷現場の近くを稽古に通うために通っていた道場の方がいたそうです。何も出来ずに悔やんでいたことを聞かされたことがありました。渦中に飛び込むのは危険な行為です。しかし何時どこで事件の被害者になるのかも分かりません。いま大切なことは一人一人が危機意識を持つ事だと思います。そしてある方がとても共感することを発言したことを思いだします。その方は国民の安全を守るために武道全般をひとつにまとめて伝統文化任侠協会として組織するために活動しています。その方、曰く。いま国民一人一人が刀を持ち 昔の用に行うべきではないかと。これから世界はコロナの影響でいままでの社会秩序が変わるだろうと これからの社会も予見されていました。いまテクノロジーの進歩は極めて速く、現実と仮想現実との区別がつかなくなることが問題視されています。刀を持つということは、現実と繋がる手段ではないかと思います。これから将来は文化の在り方が問われてくるのではないかと思います。




災難に逢う時節には災難に逢うがよく候 

死ぬ時節には死ぬがよく候 

これはこれ災難をのがるる妙法にて候

1828年の新潟三条の大地震で子どもを亡くした俳人・山田杜皐(やまだとこう)に良寛が宛てた見舞の一文です。災難に逢うときは災難に遭い、死ぬときには死ぬしかない。私たちがどんなに手を尽くしてもそれは変えられません。だとしたら、それらを受け入れて生きるしかないという訳が当てられています。いま感染対策のため自宅待機や三密(密閉 密集 密接)が求められていますが、感染が終息するまでは外出をせずにいることが大切なのか疑問に思います。いまだから言えることですが、わたくしは完治が難しい持病を抱えています。もし完治を望むなら、社会生活から受けるストレスからの開放 環境汚染が少ない場所への移住 食生活の改善(食品添加物を避けることも含む)を行うことが最善策ですが、それを行えば社会生活は難しくなります。病気が完治しないことを受け入れて、ひどくなった時 ひどくならないための対処法を持って病気を受け入れて生きるしかないのです。コロナの対策のひとつとして教えて欲しいところです。

わたしの刀は、備前長船祐定 永禄八年二月日 二尺三寸弱 です。永禄八年を西暦に直すと 1565年。江戸幕府が創設される38年前。徳川家康 23歳。この年に、三河国を平定し、翌年に徳川と改正した頃です。この時代に刀剣王国として刀を量産した備前国の一振りです。455年という時を渡って手元にあります。この時代に刀匠たちは400年以上残すモノとして作ったのでしょうか。もしこの時代の刀匠にお会い出来るなら話しを聞いてみたいものです。何百年という時を過ごしても、刀の美しさを損なわれずにいるのには感動します。刀は、実用的な武器であって、武士が神社へ奉納するためのモノでもありました。神へ捧げるものは美しいモノではないといけません。その美しさを追求し技術を高めていった、その結果が何百年という時を越えるモノを作り上げたのだと思います。刀の歴史に加えて神への捧げモノとしての刀剣の歴史を学ぶことも大切かもしれませんが、いまは一振り一振り、刀匠の想いとその時代の歴史を気持ちのなかで描いて稽古に励む日々です。

祖母は1917年に生まれて2017年に亡くなりました。100年という時を過ごしました。そんな祖母の話しですが、2歳の時に両親を亡くしています。1918年の頃はスペイン風邪が流行した年です。両親を亡くした後は、父親の姉の家庭に引き取られて育てられました。祖母の兄弟は4人いたそうですが一緒に引き取られることはなく離れ離れにさせられたようです。祖母の幼い頃は孤独に育ったようだと聞かされています。スペイン風邪の影響というのは家庭の状況を変えさせられる程に驚異だったように思います。現在、コロナが全世界で流行っています。毎日、メディアから知らされるのは感染者の数ばかりなのは違和感を感じずにはいられません。終息後はどんな社会が待ってるのか具体的な想像ができるような報道を願う。そして、一大事とは今日ただ今の心なり かな。。
仏師だった祖父が工房に「無想庵」とつけて雅号にもしていた。名前が手鶴。いつも白髪の髭をたくわえていた。白髪の手鶴さんが仕事をする場所「白鶴精舎」としても家族以外の様々な方々にも親しまれていた。そんな祖父の「無想」という言葉。何も想わ無いことはどういうことなんだろうか。幼いころから祖父の仏を彫る姿を見ているだけで会話らしい会話をしたことはない。そんな祖父は嫌いだった。そんな姿が懐かしい思える。祖父のものづくりへの姿勢を受けいれて様々なことに取り組みながら過ごしていると今になってようやく分かった気がする。無想とは心が囚われないこと。心が囚われることとは迷いや恐れまたは日常の生活も含めて。そうやって取り組んで仕上ったものは美しい。それは、造形を作る以外にも身体を通して表現されるものでも同様に居合でも。「心こそ心迷わす心なれ 心に心許すな」ひとつのことを見つめ続けられる心。心の修養が大切な日々。