無想庵

仏師だった祖父が工房に「無想庵」とつけて雅号にもしていた。名前が手鶴。いつも白髪の髭をたくわえていた。白髪の手鶴さんが仕事をする場所「白鶴精舎」としても家族以外の様々な方々にも親しまれていた。そんな祖父の「無想」という言葉。何も想わ無いことはどういうことなんだろうか。幼いころから祖父の仏を彫る姿を見ているだけで会話らしい会話をしたことはない。そんな祖父は嫌いだった。そんな姿が懐かしい思える。祖父のものづくりへの姿勢を受けいれて様々なことに取り組みながら過ごしていると今になってようやく分かった気がする。無想とは心が囚われないこと。心が囚われることとは迷いや恐れまたは日常の生活も含めて。そうやって取り組んで仕上ったものは美しい。それは、造形を作る以外にも身体を通して表現されるものでも同様に居合でも。「心こそ心迷わす心なれ 心に心許すな」ひとつのことを見つめ続けられる心。心の修養が大切な日々。


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