roots

歴史を学ぶ事は未来を考察するための教訓が歴史の中にあるためだと教えられます。その教訓は先祖が生き残るため、命を繋ぐため、何をしてきたのかを知ることです。その教訓のひとつとしていま武術の居合の型を学んでいます。もっと身近に学ぶとしたら家族ではないでしょうか。家系を調べたりすることは、必要がない限りはしませんが、普段からでも家族に伝えるべき大切なことだと思います。それは祖父母の父や兄弟のことを何も知らないからです。そのことを知るきっかけとなったのが祖父母が亡くなってから家系図を作成する機会があってのことでした。

祖父は、七人兄弟(男三人 女四人)の三男。宮崎県西臼杵郡諸塚村 出生。この村は田園風景が広がるような村ではなく、山奥の山村です。村に産業がなかったためか分かりませんが、二男は満州に渡って職を得ていたようです。長男は村に残りましたが、大正12年 24才で亡くなっています。死因はスペイン風邪の影響だと推測します。それから3年後、母親が51才で亡くなります。そして昭和12年。祖父24才の時に父が70才で他界。この年の前後で、女兄弟は結婚をして村を離れています。さらに哀しい出来事が起こります。昭和14年に二男が満州で亡くなります。両親の代わりに二男の死亡の確認と手続きを行うために祖父は満州に渡ります。下記の写真はその時にお見合い写真として写したようです。昭和16年に帰国して結婚。名古屋に住み叔父が生まれます。昭和20年の名古屋大空襲によって名古屋を離れ宮崎に戻ります。宮崎に戻ると会社を組織し、数年後、福岡に拠点を移します。そして、父が生まれ、母の祖父と知り合い、わたしが生まれるきっかけとなって繋がっていくのです。

ここまで調べてみて感動を受けた事は、祖父が30才の時には、両親と男兄弟を亡くして一人で人生を歩んでいたことでした。気難しい顔をしていて近寄り難い。そんな印象だけが記憶に残っている祖父の印象が変わりました。まだ謎が残ることが、祖父の先祖が住んだ郡諸塚村。なぜ?こんな山奥に住んだのかが謎のままです。推測が出来るのが、平家の落人説。その証拠となるのが、山を降りた隣村に椎葉村があります。そこに、平家尊々の厳島神社の守護神を勧請し建立したものとされる椎葉厳島神社があるからです。想像は膨らみます。郡諸塚村は現在、「椎茸」が特産となっていますが、これを何百年と生産している分けでもないだろうし、どの様な職を得て住んでいたかが分からないことや、戦時中の時のこと等を祖父の生前に聞いておくべきだったと後悔しています。

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